【社会考察】日本で大麻が違法化された理由
日本では大麻に対する規制が強くなっている
2021年、1月、厚生労働省は大麻に関する規制のあり方を見直す有識者検討会を設置しました。
若者を中心に大麻の乱用が目立っていることを理由としており、現在の大麻取締法では罪に問われない「使用」についての罰則を含め検討する予定です。
(https://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/other-syokuhin_436610_00005.html)
犯罪白書によると、2013年に1616人だった大麻取締法違反での摘発人数は、19年には4570人と3倍近く増加しました。2020年9月には俳優の伊勢谷さんが逮捕され、大々的に報道されたことは記憶に新しいでしょう。
これらの状況を踏まえ、国は大麻に対する規制を強化する方針を打ち出したのです。
世界では規制緩和が進みはじめている
しかし、世界各国で大麻解禁の動きが活発化する中で、日本の規制強化は少し不自然に思えます。
直近2019年と2020年には、表で示した通り、実に30以上の国や地域で大麻の規制緩和に関わる決定がなされています。
このように洋の東西を問わず、世界各国で大麻合法化は日々進んでいるのです。
ある調査によると、2010年、アメリカではヘロインの大量摂取で約3000人が亡くなりました。これに対して大麻での死者は0人です。この0という数字は2010年の数字ではなく今までの人類の歴史上0であるとのことです。
大麻は本当に危険か
また、アルコールと大麻の危険性を比較した研究については2つの有名な研究があります。
アメリカのthe Centers for disease control and prevention という機関の調査では88000人が毎年アルコールを原因としてなくなっていると言います。そのうち25000人が大量摂取で亡くなっているのです。
Columbia university が行った調査の中で、アルコールの大量摂取による運転はシラフでの運転よりも13倍の危険性があるとしました。それに対し大麻を摂取し運転した場合の危険性は2倍以下だと結論付けたのです。
このような科学的なデータをもとに、欧米や南米、一部アジア地域では大麻の解禁が始まっているのです。
大麻というと「危険薬物」のイメージが強く、感情的な議論がなされることも多いですが、なぜ日本の大麻取り締まりは始まったのでしょうか。そして今後日本は大麻とどのように向き合っていくのでしょうか。
pot ーマリファナ?
scourge
***調査結果
https://www.dreamnews.jp/press/0000207964/
「大麻」とは何か
大麻は麻薬である。これに異を唱える人はいないでしょう。
しかし、その場合の麻薬とはどういう意味なのでしょうか。
麻薬は一般的にこの漢字「麻薬」で表されることがほとんどですが、正確な記載はこの漢字の“痲薬“です。
「痲」の字は本来、“痺れる”という意味です。
大麻に含まれる薬効成分に「カンナビノイド」がありますが、その中に痲薬成分はありません。
それではなぜ現在は「麻」の字が使われているのでしょうか。
これは1949年に漢字の簡略化を目的とした、当用漢字制度の導入が影響していると言われています。
そして次の絵を見れば、かつて大麻が痲薬として使われていなかったことが、理解できます。
この絵は、清水登之(しみず とし)画伯が1929年の第16回二科展に発表した「大麻収穫」と題したものです。広い畑一面に大麻が植えられていて、それを村中の人が総出で収穫しています。大麻は稲と違って背が高いので、この絵の中央部分を見ると、まるで林のようになった大麻に、その半分ほどの背丈の村人が刈り取りのためにとりついているのが小さく見えます。
つまり、太平洋戦争が終わるまでは日本は大麻を通常の作物と同様に利用していたのです。
そして全国的に大麻畑が存在していました。
しかし、現在は大麻所持及び使用について非常に強い規制がかかり、毎年数名の芸能人が大麻利用で逮捕されています。
また、日本には厚生労働省内に麻薬取締官という名前の公務員がおり、警察以外で拳銃の取り扱いも許可されている特別な役職です。
つまり、日本政府は強固な姿勢で大麻所持、使用を取り締まろうとしているのです。
それでは戦前まで誰も気にも留めていなかった大麻が、なぜ現在の日本ではそれほどまで取り締まられる対象となったのでしょうか。
アメリカの登場
「大麻の排斥運動」は日本ではなく、アメリカで起こりました。
アメリカ合衆国は、今から250年ほど前の1776年にイギリスから独立しました。
日本では江戸時代の中期にあたり、時の将軍は徳川家治、政治では老中田沼意次が権力を握って大改革を行っていた頃です。
アメリカは1776年に建国されましたが、これあくまで白人側から見たものであって、それ以前からアメリカ大陸には、いわゆるネイティブ・アメリカンが住んでいて、それなりの政治体制もあったのです。
17世紀に、少数のイギリス人がキリスト教の宗派間の争いでアメリカ大陸に移住しました。
その後、少しずつ移民の数が増えてイギリスとの争いも激しくなり、ついにイギリス軍との戦争に勝って独立したのですが、白人はそれまでのインディアンの文化をほとんど消し去ってしまいました。
また、建国の歴史から、アメリカでは「すべての人間は平等に造られている」といわれていますが、それは階級制の国、イギリスから独立するための大義名分でもあり、独立宣言における「すべての人間(厳密には『すべての男 (all men)』という英語が使われている)」の中には、女性やインディアン、奴隷としてアメリカに連れてこられたアフリカ系の人は入っていませんでした。
この差別的な意識が、後に禁酒法や大麻の取り締まりに大きな影響を与えます。
アメリカはもともと移民が独立して造った国のため、その後も移民を受け入れ続けます。
さらに、建国の前から奴隷貿易が盛んだったこともあり、奴隷として連れて来られた多くのアフリカ人がアメリカ合衆国で暮らしていました。
さらに、アメリカは南の国境で、古いマヤ文明を持つ国、メキシコと接しています。
3000キロ(東京から下関の距離の3倍)にも及ぶ国境を接していますから、そこからも連続的に、かなりの数の移民がアメリカにやってきました。
現在でも、アメリカ・メキシコの国境は世界でもっとも移民の数が多く、この国境線の長さも、後の大麻問題を複雑にします。
大麻は、イギリスから独立した当初は、 重要な繊維原料だったのですが、その後、奴隷貿易によって大量の労働力が得られるようになって綿花栽培が盛んになり、繊維として利用される大麻は後退していきました。
19世紀に入ると、南方から長い国境線を越えてやってきたメキシコ人やカリブ海の人びと中心に、マリファナはアメリカ南部でタバコとして流行しました。
しかしこの頃、マリファナ・タバコはあまり好まれることなく、一回目の流行は自然に立ち消えてしまったようです。
まだ社会全体が未発達で西へ西へと発展していく頃のアメリカでは、パイオニア精神があふれており、マリファナのような精神的な効果を持つものに頼る必要はなかった、これがマリファナの一回目の流行が自然消滅した理由と考えられます。
*白人とヒスパニック系の対立
19世紀後半に南北戦争が起こり、リンカーン大統領が登場し、奴隷制度が廃止されました。
さらに、かつての宗主国だった大英帝国に代わってアメリカが世界の工業国として力を伸ばしてくると、社会の様相は一変します。
カウボーイが象徴だった素朴なアメリカが、20世紀に入ると、それまでの先進国、ヨーロッパの国々より「現代的な雰囲気の国家」として浮上してきます。
フォードの自動車産業、チャップリンの映画、石油化学コンビナート、そして高層ビルが建ち並ぶ都市。アメリカは世界のリーダーとして走り出したのです。
そんな中、アメリカ南部には、大量のメキシコ人やカリブ海諸国や南アメリカからの人たヒスパニック系移民が、アメリカの繁栄の恩恵を受けようと移住してきました。
彼らの大半は都市のダウンタウンに住み、労働者として働き始めました。
そして、その生活と社会的な雰囲気から、再び大麻でできたタバコが流行し始めたのです。
マリファナはジャズミュージシャンの間でブームとなり、(Fats Waller、Louis Armstrong、Dizzy Gillespie、Shidney Bechet, Cab Calloway)南部のニューオーリンズを中心に、徐々に北部に広まっていきました。
しばらくして移民してきたヒスパニック系の人々がマリファナを吸うことが、社会的な問題として意識されるようになってきました。
現代の日本の報道では、マリファナは「ゼッタイ」に触れてはいけないもののように感じられますが、実は、マリファナがどの程度の身体的・社会的影響を持つのか、また、マリファナが流行したアメリカでどのような社会的な問題が起きたのか、という記録はあまりはっきりしていません。
当時の記録を調べると、大麻をタバコとして使うことによって暴力事件が起こったり、大麻利用者の巣窟ができて、社会的不安をあおったりすることはなかったようです。
もともと大麻のタバコが流行ったのは、普通のタバコ、つまり「ニコチン・タバコ」より中毒性がなく、値段も安かったことが理由で、単に「安ものタバコ」の一種として使われたというのが実情のようです。
しかし一つ問題がありました。
当時、アメリカ南部に住んでいた白人は、あまり大麻のタバコは吸わなかったということです。
それに対して、移民してきたヒスパニック系の人は大麻のタバコを吸うので、もともとその習慣がなかったアメリカ南部の白人は違和感を持ったようです。
アメリカ合衆国は、建国された頃は移民の国だったのですが、それから100年以上も経ち、アメリカはアメリカとしてのアイデンティティを持つようになります。
また、奴隷制度があったことからわかるように、強い人種差別の意識もありました。
そんな雰囲気の中、もとは移民の国だったにもかかわらず、「先に移住してきたアメリカ人」と「後から来たアメリカ人」の間に、利害関係の対立も発生するようになったのです。
そのような社会的背景のもとで、黒人やヒスパニック系を排斥するための口実として「マリファナはよくない。あれがあるから社会が不安定になるのだ」という話になり、主として白人側からマリファナ排斥運動が始まりました。
現在のアメリカでは、麻薬やマリファナの使用割合は、白人も有色人種もほぼ同じです。
しかし当時は、マリファナというと、ダウンタウンの汚いところで移民たちが集団で吸っている……という風景を白人は思い起こしたのです。
第二話 禁酒法の登場
ここから、禁酒法について少し踏んだ説明をしますが、これには理由があります。
大麻の取り締まりを理解するには、禁酒法の理解が欠かせないからです。
20世紀の初めのアメリカに、ある人物が登場します。
アメリカ連邦麻薬局長官、ハリー・アンスリンガーです。
アンスリンガーは、その職務からわかるように、コカインやアヘンなどの薬を取り締まる部署の長官でした。
彼はある時から、マリファナの追放に乗り出すのですが、その一つのきっかけになったのが、「禁酒法」でした。
禁酒法は1917年に成立し3年後の1920年に施行されました。しかし1933年に廃止された短命な法律で、その内容は、お酒を飲むこと自体は良いのですが、その製造、販売、移動を全面的に禁止するというものでした。
そこでなぜ、こんな奇妙な法律ができたのかを理解するために、別の角度から、アメリカ合衆国という国の成り立ちを見てみましょう。
17世紀の初めに、イギリスからピューリタンの人たちが大西洋を渡って移住してきた時、すでにアメリカにはネイティブアメリカンが先住民族として住んでいました。
でも、ネイティブアメリカンは穏やかな民族でしたから、白人がネイティブアメリカンを襲わない限り、白人をそのまま受け入れたのです。
それでも、最初に国を建設した白人たちは大変でした。
建国当時のアメリカの厳しい物語は多くの書物で知ることができます。
遠くイギリスから移住してきて、自由を得たのはよかったのですが、気候は寒く厳しく、大変な毎日でした。
そんななか、幸運なことは、巨大な森林がそびえ、天然資源に恵まれていたこと、加えて、膨大で肥沃な土地が無限ともいえるほどに西に広がっていたことでした。
当時、ヨーロッパは産業革命以後の発展期にあり、製鉄に膨大な木材を必要としていました。
それにはアメリカから輸出された木材が活躍しました。ちょうど、時代のタイミングが合い、ヨーロッパとの貿易で発展することができる素地があったのです。
また、広大な西部を開拓するには、ネイティブアメリカンを圧迫しながら西へ西へと展開していかねばなりません。そのためには荒くれ男や銃も必要です。
このような開拓の歴史の中で、私たちが西部劇のワンシーンで見るような、酒場で飲んだくれたり、「のどが渇いた」といってはウィスキーをがぶ飲みしたりする荒くれ者が出てきました。
彼らは激しい労働、未知の土地を開拓していく不安などから、ワインやビールといったアルコール度の低いお酒ではなく、ウィスキーのような度数の強い蒸留酒を好んだのです。
しかし、文化が違うと言葉の意味が変わるように、「禁酒法」といえば日本では「お酒を禁止した」と思われがちですが、実はそのとおりではありません。
当時のアメリカで「お酒」というと、おおよそ「ウィスキーなどの蒸留酒、つまり強いお酒」を意味していて、ビールなどは「食中毒を防ぐ飲み物=水のようなもの」だったのです。何しろ、アルコールに強い白人なため、ビールは水、ワインもわざわざお酒というほどのことはなかったのです。
日本は規則を守る社会ですから、法律で禁止と決まれば「禁止」に決まっていると思いがちですが、当時のアメリカ社会での「禁酒」という言葉は、現代の日本で言い換えると「節酒」と同等の感覚でした。
しかし、その曖昧さが後に禁酒法の失敗の原因の一つとなったのです。
徐々に「お酒の飲みすぎは社会を壊す」ということで、禁酒の気運が高まり、1826年にはボストンに「禁酒協会」が設立されます。
この禁酒運動には、教会も積極的に一役を買うのですが、よく知られているように、教会ではワインは「聖なる飲みもの」と考えられています。
もともと教祖のイエス・キリスト自身が飲んだといわれていますし、キリスト教の多くの行事にワインが登場します。ワインはイエス・キリストの血を象徴する飲み物ですから、それを悪いものとして禁止することなどできません。
そのため、お酒の中でも、ワイン は問題視されず、ウィスキーのような度数の強いお酒を起因とするアルコール依存症が問題視されました。
加えて、すでに西部の開拓が一段落して、アメリカは初期の荒々しい時期から近代国家に発展しつつありました。そうして社会が次第に清潔好きになってきたことも、禁酒法が登場する社会的背景としてありました。
そして1851年、ついにメイン州で最初の禁酒法が成立します。
メイン州はアメリカ合衆国の東北部にあり、ヨーロッパから移り住んだピューリタンの雰囲気がまだ強く残っているところでした。
さらに事態を複雑にしたのは、禁酒法成立の背景に、最初にヨーロッパから移民してきたプロテスタントと、
その後ドイツなどから移ってきたカソリックの人たちとの対立があったことです。
宗教的な対立に世俗的な利害関係が絡むのは普通のことです。ピューリタンとしては、後から来た移民がお酒を飲んだくれていて、加えてカソリックということで、彼らを排斥したいと強く思うようになったのです。
もともと宗教的対立が原因でイギリスから逃れてきたプロテスタントが中心となり建国されたアメリカですが、
その後、移民の多くがカソリックだったことから、現在では、プロテスタントとカソリックはほぼ同じ数といわれています。
そうこうしているうちに、1914年に第一次世界大戦が始まります。アメリカは最初は孤立主義(モンロー主義)を唱えて参戦しませんでした。
しかしドイツの潜水艦にイギリス商船のルシタニア号が撃沈され多数のアメリカ人が犠牲になったこともあり、国内で急速に反ドイツ感情が高まり、1917年に参戦します。
この過程で、ますます「飲んだくれるドイツ人を許すな」という雰囲気が強くなってきました。加えて、ビール業界がドイツ人に牛耳られていたことも、反発を強める原因となりました。
さらに、女性が社会的な力をつけてきます。
当時、男性と比較すると女性はお酒をそれほど飲みませんでした。また強いウィスキーをがぶ飲みする人というのは女性にとっても迷惑な存在だったため、女性も参加して、禁酒運動はいっそう盛り上がりました。
結局、業界の対立や女性の力、宗教界の影響などがあり、ついに1917年、歴史的に珍しい法律である「禁酒法」が議会を通過し、当時のウィルソン大統領が署名し「お酒は禁止」になったのです。
禁酒法と大麻取締法(アメリカでは大麻課税法)は似ている点が多くあります。
たとえば、双方ともに全面的に禁止するのはどうかということもあり、断固たる態度では取り締まれず、規制が曖昧になりました。
つまり、禁酒法には、最初から抜け道が用意されていたのです。
法律を作る方も、「ちょっと、行きすぎではないか」と心の中で思っているので、シッカリした、論理的な条文ができなかったのです。
「お酒を飲んではダメ」とはっきりしていれば全面禁止できるのですが、お酒は法律で罰するほどのものではありませんし、ワインは神聖な飲み物です。
ワインはいいがウィスキーはいけないということになると、個人の趣味の問題になってきます。
ウィスキー党の人から「君たちは肉体労働をしていないから、ウィスキーがいらないのだろうけれど、我々は体を使っている。夜になって疲れた体を癒すために、家でウィスキーをちょっと飲むことの何が悪い。そこまで自由を束縛するのか!」といわれると反論は難しいのです。
そこで、いわゆる「禁酒法」は「ウィスキーの販売禁止法」のような内容で成立しました。
つまり「ウィスキーを家庭で飲むのは良いけれど、作ったり、売ったり、輸送したりしてはいけない」という中途半端な法律になったのです。
その後の禁酒法の歴史の教えるところによると、この中途半端な規則が混乱を招き、犯罪者を増やし、ギャングを横行させ、さらに社会を大混乱に陥れました。
ウィスキーを作ることも売ることも禁止だが、飲んでもいいということになると、少しの例外は別にして、「闇ルートから買って飲めばよい」ということになります。
そこで闇ルートを仕切る男として有名な、アル・カポネが登場したのです。
禁酒法の施行とともに、アメリカはお酒の「輸入」を禁止しますが、隣のカナダは「輸出」を許可していました。
そのため、カナダからウィスキーを密かに輸入し、それを「ウィスキーを飲みたがっているアメリカ市民」に売ったのです。
この行為は法律に違反するという点では、明確に、違法なのですが、「飲みたい人がいるのだから、売って何が悪い」という理屈をマフィアは主張したのです。
当時の酒屋は「正しく商売すればつぶれ、闇でやれば儲かる」といわれたものです。
禁酒法は成立し施行されましたが、ウィスキーを飲むことは抑制できず、 単にギャングを増やして社会を不安定にしただけなので、禁酒法は施行からわずか3年で廃止されました。
日本の大麻取締法について考えるときに、このアメリカの禁酒法の成立過程とその取り締まりの歴史が、とても参考になります。
禁酒法から大麻課税法へ
アメリカの禁酒法が廃止されたの 1933年。
そして大麻規制の法律である大麻課税法ができたのが1937年です。 その間は4年間です。
この時期には何が起こったのでしょうか?
少し遡ってみると、1920年に禁酒法が施行されたことで、警察は取り締まりを強化しなければいけませんでした。どんな欠陥のある法律でも、それを守らせるのが警察の仕事だからです。
そのためには、まず取り締まりをする人間が必要です。
テレビや映画では、マフィアの大物アル・カポネを追う連邦警察FBIがクローズアップされましたが、実際には小さな酒屋さんや禁酒法の網をくぐろうとする個人の取り締まりが数の上では中心でした。
何しろ規制対象がお酒であるため、監視対象は国民全員なのです。
それには多くの捜査官が必要でした。
一方、闇ルートには、ピストルを持ったギャングが登場します。
雇用された膨大な数の捜査員は、毎日、危険を犯して取り締まりをしたことになります。
ところが、命を張って取り締まりをしたのに、禁酒法はたった3年であっさり廃止されました。
しかし、禁酒法の廃止と同時に別の新しい犯罪が急に増えるということはありません。
実際、禁酒法の廃止にともなって捜査員が大量に余るという事態が生じました。
仕事がなくなれば、捜査員といえどもクビになるしかない。
禁酒法の廃止から大麻課税法制定までの4年という期間に、上層部は禁酒法時代に活躍してくれた大量の捜査員をどうしようかと考えたのです。
そこで目をつけたの大麻です。
禁酒法の成立時には大陸から移ってきたドイツ人などが悪者でしたが、大麻課税法制定の裏側には、メキシコなどから移ってきたヒスパニック系の人たちに対する感情的な反発がありました。
禁酒法時代に活躍した捜査員の仕事先が見つかることに加え、もともとヒスパニック系の人たちが街に進出してくることを快く思わない人たちは、これ幸いとマリファナを規制対象にしたのです。
麻薬取締局はこれにより予算カットを回避しました。
つまり、「失業対策のために大麻を悪者にした」という側面があったのでした。
しかし、この大麻を取り締まるための法律ができる前後、
大麻は必ずや社会に害を及ぼすということを医学的・科学的に立証したデータは、18世紀のイギリスの委員会のものしかありませんでした。
圧倒的に情報が不足していたのです。そして、禁酒法の時代、20世紀前半の社会情勢は、今のように落ち着いたものではありませんでした。
第一次世界大戦後も戦争は続き、ヨーロッパではナチスが台頭し、アジアや中東の情勢も不安定でした。
ですから、たかだかアメリカ南部のタバコの一種などについては、社会の関心も薄く、研究が進むということもあり得ませんでした。
そこに目をつけたのが、先ほど登場したアンスリンガーです。
アンスリンガーが始めた「マリファナ追放キャンペーン」は徹底していました。メディアを私物化していた新聞王ハースト。彼も利害が一致したためにマリファナ撲滅キャンペーンに参加しました。
アメリカでは新聞が発達していましたから、連日大麻に関する記事を新聞に掲載します。
殺人や事故、モラルの低下は全て大麻のせいだとしたのです。
またその頃広く普及しつつあった映画なども使って、「マリファナは人格を破壊する」という宣伝を始めたのでした。この映画に登場したのはメキシコ人ではなく、白人、それも多くは若者でした。
まず、若者がマリファナに染まり、最初は快楽に酔う様がスクリーンに映し出されます。
そして、次第にその若者はボーッとした顔つきになり、最後には凶暴になって人を殺します。
こういう筋書きの映画が、多数作られたのです。この映画は、宣伝として効果的でした。
この時期のキャンペーン映画を、マリファナのことを少しは知っている人が見ると、一目で、マリファナと関係のない俳優が、単に「演技」をしていることがわかります。
しかし、当時、ほとんどの人がマリファナのことを知らなかったために、その演技を信じこんでしまいました。
このような手法は現在でも多用されています。
たとえば環境問題に関連する映像に女優や子どもたちが登場して「地球の危機」を訴えるのです。
「マリファナ追放キャンペーン」映像でも、本当にマリファナを吸って精神がおかしくなった人が登場したのではなく、俳優がそういう役回りを演じていただけでした。
医学的に根拠のない中毒症状の映画や宣伝を流して、世論をあらぬ方向に持って行くことは、常に行われています。
因果関係のハッキリしない映像を使って恐怖心をあおるという一種の世論操作を行なったのです。
未知のものに対する人間の恐怖心を巧みにあおり、社会的ヒステリーを作り出そうとするとき、ナチス・ドイツもそうでしたが、マスメディアや映画などを繰り返し使うのが有効だったのです。
アメリカの世論は、アンスリンガーの扇動に乗ってマリファナ追放に乗り出します。
マリファナ課税法が連邦議会に提出される頃になると、誰も「マリファナは安全だ」と口に出せなくなりました。
こんな状態でしたから、法律の審議に入ると、アメリカ合衆国の連邦議会は、大麻の薬性、習慣性などはほとんど議論せず、とにかく大麻に大きな課税をして実質的に使えなくするという法律(「大麻課税法」)を可決したのです。
人体に対する影響を検討するのがもっとも重要なはずなのに、科学的・医学的審議はなく、「ここまで大麻追放の世論がわき上がっているのだから、審議しても無駄だ」ということになったのです。
禁酒法の成立時にはウィルソン大統領が署名しましたが、大麻課税法ではルーズベルト大統領が署名しました。
注目すべきは「大麻禁止法」ではなく、「大麻課税法」だったという点です。
この法律の内容は、大麻を使うには法外な税金を納めなければならないというものでした。
ですから形式的には、税金を納めれば大麻を扱うことはできたのですが、実際には、「大麻に課税したことを示す証明書」は一度も発行されていません。
つまり、表面的には課税法ですが、実質は禁止法だったのです。
禁酒法が「お酒を飲むのはよいが、作ったり、運んだり、売ったりしてはいけない」という不自然な規則になったのは、お酒がそれほど社会的な害をもたらさないので、そこまで規制できない、という事情があったことは前述しました。
マリファナの場合も、「マリファナで何か社会的な害が生じたか?」と聞かれると困るので、全面的な禁止ではなく、形式上「税金を払えばよい。倫理的には大麻は悪くない」という中途半端な規制になったのです。
つまりマリファナの場合、身体的な害毒、社会的な影響が明確には証明できないので、「大麻禁止法」ではなく「大麻課税法」になり、財務省が課税証明書を出さないことで実質的には禁止するという不透明な形になりました。
また、大麻課税法が議会で可決された裏には、当時、ようやく合成繊維の実用化の目途がついてきた石油化学業界からの圧力もありました。
現在では、石油が枯渇しそうだということで、石油に代わって自然からとれるものを大切にしようとしていますが、当時はまったく正反対に、「何とかして自然からとれるものを排除して、石油化学を育成しよう」という機運がありました。
そのため、大麻をはじめとした「自然からとれるもの」、さらには大麻のように「容易に栽培できる作物」を排除する力が働いたのです。
その頃、デュポン社が石油化学分野で特許を取得しました。1920年台から急速に発達した石油化学産業によって様々な製品が石油から作られるようになりました。
一方、大麻は綿花やパルプに押されながらも紙、繊維、食品や医薬品として利用されていました。研究は進み、大麻の使用範囲は建材や燃料、プラスティックに車のボディまで広がっていきました。
デュポン社は大麻産業を敵視していました。機械油の原料シェアは当時大麻が99%でその他が1%でした。
広大な森林を所有していたキンバリークラーク製紙会社にとっても大麻は目障りでした。
利権企業である製薬、石油化学、製紙業もマリファナ撲滅運動に参加しました。
アスリンガーを任命した財務長官である(Andrew W Mellon)もデュポン社への投資家でした。
ちなみにこの法律を議会提出した際のRobert L Doughton という議長もデュポンの後援者であり法案を審議なしで大統領へ提出しました。*このケースはアメリカの歴史上、他に例がありません。
建国当時のアメリカでは、大麻は重要な資源として使われていましたが、日本と同様に(難しい字の麻薬)薬として使われることはありませんでした。
その後、奴隷による綿花栽培が盛んになり、麻産業はその力を弱めていくわけです。
このような石油化学業界の動きも、大麻課税法が成立した一つの大きな要因になったと考えられています。
石油化学、特に石油から作られる合成繊維やプラスチックが優れた製品になったのは、デュポンの研究員だったカロザースがナイロンを発明し、最高の繊維とされていた日本の絹を、質や価格で上回るようになったばかりでした。すなわち、大麻課税法が成立した時期は、奇しくもカロザースのナイロンの発明があり、石油化学に大きな夢が生まれていた時代でもあったのです。
当時、カリフォルニア大学の研究員だったジャック・ヘラーは、『裸の王様』という著作の中で、大麻課税法の成立は「石油産業の謀略」だと書いています。合成繊維が誕生した直後のことですから、この記述にも頷けます。
大麻課税法が成立した二年後に、第二次世界大戦が始まりました。アメリカは真珠湾攻撃(1941年)をきっかけに参戦します。戦線が拡大し、ヨーロッパ戦線と太平洋戦線に次々と自国の若者を送り込んでいたアメリカは、大麻どころではありませんでした。
そんな状況下で、大麻課税法は時間の流れとともに社会に定着し、いつの間にか「大麻は榊薬の一種」になったのです。
人類初めての大麻の総合的な規制は、アンスリンガーというキャンペーン好きの役人が、自分の部下の就職先を探すために作り出したのかもしれません。またヒスパニック系の移民を排斥しようとするアメリカの社会の気まぐれや、第二次世界大戦前の騒然とした世相に押されたという見方もできるのです。
アメリカで1937年に成立した大麻課税法は、その後、約10年で日本に上陸します。
日本とアメリカが全面戦争に突入したのは、1941年 2月8日の真珠湾攻撃が発端です。それから4年間、日本は死力を尽くして戦いましたが、敗北して無条件降伏し、日本はアメリカ軍に占領されました。
後のサンフランシスコ講和条約の締結まで、日本という国は一時的にせよ失われたのです。
戦後しばらく、日本はGHQと呼ばれる連合国軍総司令部の支配下にありました。
昭和30年にポツダム緊急勅令(勅令第542号)をもとにした「ポツダム省令」が発せられます。
このGHQの指令によって日本名「麻薬原料植物ノ栽培、麻薬ノ製造、輸入及輸出等禁止ニ関スル件(昭和20年厚生省令第6号)」が出され、日本で歴史上初めて「大麻は麻薬」であるとされました。
この指令は、日本にとっては青天の霹靂でした。
なぜなら、縄文時代以来、普通の作物として疑うことのなかった大麻草の栽培が、全面的に禁止されたのです。
戦前から大麻栽培が盛んだった日本では当時、全国的に大麻農家が多く存在していました。
そのため当時の農林省は農家の廃業を防ぐべくGHQと交渉までしているのです。
なんとか条件付きの大麻栽培が認められたと同省の資料には記されています。
また当時の厚生省も規制の必要性を疑問に思った上、大麻農家も大反対していたのですが「占領中のことであるから、そういう疑問や反対がとおるわけもなかった」と10年にわたって内閣法制局長官を務めた林修三さんは法律雑誌で振り返っています。
林さんは後に長年の日本国に対する勲功(くんこう)で、勲一等旭日大綬章を受章されていますが、戦後の混乱期に大麻取締法ができた前後のことを次のようにも述懐しています。
「終戦後、わが国が占領下に置かれている当時、占領軍当局の指示で、大麻の栽培を制限するための法律を作れといわれたときは、私どもは、正直のところ異様な感じを受けたのである。先方は、黒人の兵隊などが大麻から作った麻薬を好むので、ということであったが、私どもは、なにかのまちがいではないかとすら思ったものである。大麻の「麻」と麻薬の「麻」がたまたま同じ字なのでまちがえられたのかも知れないなどというじょうだんまで飛ばしていたのである」
「時の法令」(昭和10年4月、No.530)に「大麻取締法と法令整理」という題名で掲載されています。
この証言で、当時の――といっても今からたった70、80年ほど前のことですが――日本人が大麻という植物についてどのような感覚を持っていたかがわかります。
しかし歴史は、大きな流れとなって驀進していきます。
最初のGHQの指令による法律ができた2年後、同じポツダム省令に基づいて、大麻をその他の麻薬と切り離した「大麻取締法施行規則(厚生省・農林省令第一号)」が成立しました。
最初の省令では、大麻は全面禁止でしたが、アメリカ軍も日本の風習を勉強し、全面的な禁止は無理であることを知り、最終的には許可制になり、大麻草の栽培が一部は認められ大麻の輸入・輸出・所持・販売等が規制されるに至ったのです。
それでも、この法律の立法の趣旨はあまりはっきりしていません。
通常の法律には「目的」の条文があるのですが、大麻取締法には法律の目的が書かれていないからです。
この法律に目的が書かれていないのは、その成立過程を考えると当然です。
なぜなら「目的があって法律を制定した」というのではなく、「占領軍に命令されて作った」というのが事実だからです。
HQとしては日本を占領している間に、できるだけ「日本のアメリカ化政策」を進めようとしていました。
ですから、大麻に関するGHQ指令も、その一環として行われたと考えています。
つまり、アメリカにある法律だから、日本にも必要だろうという程度の考えだったと思われます。
しかし、大麻取締法は最終的に日本の国会を通過しているため、当然ですが日本の法律です。
国会で若干の議論はありました。ただ、アメリカで大麻課税法が成立したときと同様、医学科学的な議論は皆無でした。
その時の国会の議論は、古来日本は大麻を大量に製造してきたこと、戦時中は軍部が丈夫な繊維がとれて育ちやすい大麻の栽培を奨励したこととの整合性をどうするか、また、大麻栽培農家の保護をどうするか、などに集中していました。
大麻は麻薬性があるのか、取り締まるべき植物なのか、さらには社会的に罰するほどの害毒をもたらすものなのか――という本質的な議論ではなく「進駐軍の指令は前後のつじつまが合っているか」ということだけが、審議されたのです。
このような変遷があり、日本で突然、大麻という植物は取り締まりの対象になったのです。
その立法の過程を整理すると、アメリカでアンスリンガーが大麻追放のキャンペーンを行った
マリファナが薬物であるかどうかわからないうちに法律ができた戦争で負けて占領された日本のアメリカ化政策のもとでGHQが大麻取締法を作らせたという流れが確認できるのです。
日本が大麻を違法化した理由
ここまでの内容を振り返ると次のようにまとめることができます。
「ヨーロッパの一部の国では、人体や社会に対する大麻の影響を考慮して大麻の規制の程度を決めている。ところが、日本とアメリカは行きがかりで法律を作った。今まで日本では、大麻を法律で規制すべきかどうかの科学的、社会的な検討がなされていない。特に、日本人の目から見ると、大麻を規制することは、日本の長い歴史の伝統に反する」と言えるでしょう。
つまり、日本は戦前のアメリカに追従する形で大麻を取り締まってきました。
日本は大麻に対して思考停止した目的不在の規制を進めていると言えるかもしれません。
また別の見方をすると、警察利権やアルコール関連の利権も見え隠れします。カナダの医療用大麻の利用者の41%がアルコールの代用品として大麻を利用していると言います。
また他の調査ではカリフォルニアの医療用大麻利用者のアルコール摂取量は国民平均を下回ると言います。
これらのことを鑑みると、アルコール関連の何らかの利権が大麻解禁への足枷となっている可能性も否定できません。日本のアルコール消費量(サイト:酒を飲まなくなった日本人:一人当たり消費量ピークの2割減より)は1994年をピークに下がっています。もし医療用、嗜好用大麻が解禁されればアルコール消費量がさらに減るのは避けられないでしょう。
現在の世界の大麻取締状況
ここまで、大麻が取り締まられるまでの歴史を見てきましたが、現在、世界ではどのような状況になっているのか、参考にアメリカニューヨークの例を確認してみよう。
現在ニューヨークでは大麻を所持していることは違法ですが、少量所持と使用であれば逮捕されません。
大麻の吸引には刑事罰がなく、民事上の違反となり、罰金のみで済むのです。
もし罰金が不服であれば警官からその場でチケットを切られ、裁判所で戦うことになるが、よほどでない限りしないでしょう。近いイメージとしては駐車違反で罰金の有無について警察と裁判所で争うようなものだからです。
そして現実には、ニューヨークで大麻使用者に対してほとんど罰金徴収されておらず、前述の通り大麻を吸っている人が目の前にいても警官は取り締まっていないのです。つまり現在、ニューヨークは大麻解禁の前段階に入っているといっていいでしょう。現時点でのニューヨークの大麻所持の罰金と罪の基準については表の通りです。
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28g以下…罰金50ドル(約5500円)、刑事罰なし
28g~56g…罰金200ドル(約2万2000円)、刑事罰なし
56g~224g …罰金1000ドル、刑事罰1年
224g~455g…罰金5000ドル、刑事罰4年
455g~4.55kg…罰金5000ドル、刑事罰7年
4.55kg以上…罰金15000ドル、刑事罰15年
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通常、大麻の使用量は1回0.1g~0.2gとされています。
つまり、1gの大麻は約5回から10回分ということになり、罰金50ドルとなっている28gの大麻所持というのは ジーンズのポケットに入りきらないくらいの量になるのです。
そのことを鑑みると、刑事罰が発生する56g以上の大麻所持の場合は、もはや大麻所持者というより、大麻の売人への刑事罰ということがわかります。
ニューヨーク市での大麻による逮捕者は、ここ数年で急速な減少傾向にあり、2019年には逮捕者が約1500人にまで減り、2020年においては6月までの半年でたったの228人になっています。(ソース:NYPD Marijuana Arrests)
ほとんど逮捕していない理由としては、州知事をはじめ、市民が大麻を危ないものと認識していないことが大きいでしょう。
ニューヨーク州は2014年に医療用大麻の使用を認め、2019年には過去に大麻で有罪判決を受けた人の犯罪履歴を消す法律にクオモ州知事は署名しています。
2021年1月の施政方針演説で「我々は他の15州に追随し、成人が娯楽のために大麻を吸うことを合法化する」「合法化は州の税収増につながると同時に、有色人種に対する大麻を理由とした過剰な取り締まりに終止符を打つ」と述べ、早期の合法化を目指す決意を表明しています。
東海岸ではボストンがあるマサチューセッツ州やメイン州、バーモント州がもうすでに大麻が完全に合法化されています。
アメリカ全50州での大麻の解禁状況は以下の通りです。
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大麻完全合法化:11州およびワシントンDC
医療用大麻解禁:33州(合法化11州およびワシントンDC含む)
使用に刑事罰なし:27州(合法化11州およびワシントンDC含む)
(ソース:DISA GLOBAL SOLUTIONS MAP OF MARIJUANA LEGALITY BY STATE)
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ニューヨークではクオモ州知事が大麻解禁に賛成で、デブラシオ市長が大麻解禁に反対していました。2019年に大麻解禁の意思表明をしたクオモ州知事は、2020年の1月にも大麻解禁の意思を再表明しています。
州と市は神奈川県と横浜市、大阪府と大阪市の関係に似ており、市のほうが人口密度も高く、都市化しているものの、公衆衛生において権限を持っているのは州になります。
ニューヨーク州は2019年に大麻を公衆衛生法に入れており、タバコを吸ってはいけない場所は、大麻も同様に吸ってはいけない場所に追加しています。例えばニューヨークでは、公園内やホテルの部屋などでのタバコの喫煙は禁止されているのです。
そこに大麻を追加したのですが、これは裏を返せば「禁止されていないところでは大麻を吸っていい」という意味になっています。しかし、ニューヨークでは大麻使用による凶悪犯罪も起こっていません。
毎日のように暴力事件や発砲事件があるニューヨークでも、大麻常習者による事件は聞かれません。
薬物中毒者による犯罪のほとんどは、大麻以外の別の薬物摂取による「ハイ」の状態によるものだと思われています。なぜなら大麻は、基本的に気分を落ち着かせるためにあり、高ぶらせるために使用する人はいないからです。
だからこそ痛みや鎮静の作用を目的として使用する医療用大麻がアメリカで解禁されていっています。
最近では向精神作用の低い医療用大麻の栽培も始まっていますが、医療用といっても広くは大麻の呼び方の違いにすぎないのです。
そもそもニューヨークでは大麻所持より、お酒の所持のほうが厳しいといえるかもしれません。
公共の場所(歩道、公園、地下鉄など)での飲酒は違法です。公園内でも道ばたでも、お酒を持ち歩くにしてもラベルが見えるように持つことは禁止されています。
おそらくアメリカの映画で茶色い紙に包んでワインを持ち歩いているシーンを見たことがあるかと思いますが、あれはお酒のボトルやラベルを隠すためにあるのです。
ボトルやラベルを見せないということは、いわゆるアルコール中毒者に対しての配慮(お酒を想起させない)であり、それだけお酒に常習性、依存性があり、お酒を危険視しているということでもあります。
これはニューヨークでタバコの販売店はタバコのパッケージを見せるように販売してはならない、というルールと同様の措置です。
+世界で大麻を認めている国リスト
ここまで大麻が規制され始めた歴史と、ニューヨークの例を参考に見てきました。
日本の思考停止社会
しかし日本では大麻規制の歴史や、海外の具体的な状況を大手メディアが報道することもないようです。
弁護士の亀石凛子氏は以下のように述べています。
「世界的に緩和が進み、日本に規制を押し付けた当の米国でさえ見直しが進んだ現在でも、国が自ら植え付けた強烈な偏見が残り、法改正の議論が起こらない。残っているルールがおかしければ、ルール自体を疑わなければいけないはずですが、日本人はルールを破ったことへの非難が強いだけで、疑う癖がついてないように感じます」「実際、大麻についてツイートすると『弁護士なのに法律を守ることを放棄している』なんてバッシングがよくある。弁護士の仕事は、法律を盲目的に守ることではなく、間違った法律があれば改めるよう闘うことだ。」
大麻の例とは異なりますが、2012年に大阪市のクラブ『NOON』の経営者が逮捕されました。結局無罪を獲得した事件ですが、この際、1948年に成立した風営法の条文が適用されました。
戦後、ダンスホールが進駐軍と日本人女性との売春の温床になっているとして作られた条文なのですが、全く違う現代のクラブに無理やり当てはめられたのです。
また、2015年に医師免許を持たずにタトゥを入れたとしてタトゥーの彫師が摘発された事件では、古い法律の適用でなく、『医師法』という畑違いの法律を適用したケースでした。表面的に見れば針を皮膚に刺してインクを注入するタトゥーは、注射と同じように感染症の恐れがあるわけですが、
そもそも彫師と医師では職業の成り立ちも歴史も、必要とされている技術も知識も違うわけです。
そうしたことを立証し、18年に大阪高裁で逆転無罪判決、20年に最高裁で無罪が確定しました。
これらクラブ、タトゥの2例では、古い法律を法律の成立理由とは異なる状況に無理やり適用されました。
そして、「タトゥの彫り師は全員医師免許を持っていなければいけない」と言われたら、多くの人は違和感を感じるのではないでしょうか。「車を運転する人は全員機械エンジニアの学位を持っていなければいけない。なぜなら車が故障した時に機械についての包括的な知識がないと危険なため。」と言っているようなものであり、その不自然さは明らかでしょう。
しかし、日本では終戦直後に施行された大麻取締法をクラブ、タトゥの例と同じく状況が異なっているにも関わらず社会に適用しています。
さらに別の例を挙げると、2021年1月現在、欧米からアジアまで広く用いられている“Lime”などの電動スクーターでさえ日本では道路交通法の制限の元、禁止されています。
日本ではルールの存在目的を達成することではなく、ルールに従うこと自体が目的になっていることが多いように思えます。そしてルールに従うことが目的であるが故に、本来達成したかったことが達成できていないのです。
内閣府は「2030年の目指すべき将来像と経済の姿」という資料の中でこのように述べています。「個人の能力の発揮に加え、年齢、性別などにとらわれない多様な個性の融合や
世界中から日本に集まる優秀な人材間の触発が繰り広げられる“多様多才社会”となる」
日本はここまで述べてきたような柔軟性のない制度を当たり前だと考え、「とりあえず現状維持」をしてきました。
このように明らかに“思考停止”している日本社会ですが、このような国が「世界中から優秀な人材を集める」ことができるのでしょうか。
世界中の優秀な人材は“思考停止”社会である日本を“活躍できるフィールド“だと感じるのでしょうか。
大麻の問題は日本社会における根源的な問題を映し出しているように思えます。
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